
明治43年11月 4日
高知県土佐市宇佐町に山本家四女として誕生
昭和 3年 3月31日
高知県立第一高女卒業
昭和 6年11月26日
田所龍企と結婚
昭和 9年
朝鮮に渡る。黄州にて夫龍企と農園経営
昭和20年
終戦とともに引き揚げ高知市にて食堂「まつみ」を経営
昭和23年
真人社に入会 細井魚袋に師事、短歌を学ぶ
昭和24年
高知歌人クラブに入会
昭和26年12月
「高知歌人」編集発行人となる
昭和28年
女人短歌会所属、日本歌人クラブ会員となる
昭和29年1月27日
高知県護国神社献詠歌選者
昭和30年8月15日
第1歌集「暖簾のかげ」発刊
昭和38年12月20日
第2歌集「続暖簾のかげ」発刊
昭和40年
毎日・読売新聞歌壇選者
昭和46年3月1日
第3歌集「造礁珊湖」発刊
昭和47年11月3日
高知県文化賞受賞
昭和50年2月
高知県短詩型文学賞選考委員
昭和55年1月10日
随筆集「ビルの谷間に」発刊
昭和56年9月1日
第4歌集「双眸」発刊
昭和56年11月22日
高知市五台山に歌碑建立
平成元年6月1日
第5歌集「螺旋階段」発刊
平成6年2月6日
没 享年84歳
平成11年6月15日
遺歌集「地に還りゆく」発刊(妙子・龍企共著)高知歌人社

高知県高知市新屋敷1-10-25
編集発行人 田所 俊一
TEL 088-872-7113
高知銀行南支店 普通預金 0783612
口座名義人 田所俊一
獄中歌人として短歌をつくり続けた平尾静夫氏の作品集。初版は昭和37年に、高知市の歌人、故田所妙子さんが編集して刊行され反響を呼びましたが、44年ぶりに、妙子さんの長男、田所俊一さんの手により新編集され、復刻版として出版されました。
平尾氏は、生後すぐ養子に出され、生母は半年後に死亡したという身の上。養母を殺害した罪で死刑囚となり、仙台市の宮城拘置所に拘留され、1960年、28歳で刑場に消えた・・・刑執行前年の1959年、妙子さんが主宰していた短歌雑誌「高知歌人」に獄中から投稿したことをきっかけに文通が始まり、妙子氏に師事し、生きがいとして短歌をつくるようになる。短歌はめきめきと上達し、手紙には「灰色の人生からバラ色の人生というような幸福な日々を送らせて頂き」という文面が見られるようになるが、最後まで、死の恐怖との戦いの日々でもあった。復刻版には平尾氏が獄中で詠んだ歌233首が収録されている。獄中という特殊な環境の中で詠まれた歌には、目に映る植物や小動物の命に愛情を注ぐものや、独房に響く微細な音に耳を傾けての心理の変化を詠ったものなどが多くある。また、それぞれの歌の深淵には、自分自身の運命を凝視する強い視線が感じられる。平尾氏の最後となった手紙には、この歌が書いてあった。「刑場に果てる命を嘆きつつ蟲になりても生きたしと思う」
1962年1月29日の朝日新聞が田所妙子さんと平尾静夫氏の交流を紹介し、全国に大きな反響を呼び、多くの人に感銘を与えました。妙子さんは1994年、84歳で他界しましたが、生前「今日か明日かと死の足音を聞いている人を、私は憎むことができませんでした。作品は死期の近づくにつれて、格調の高いものが多く見られます」と話しています。妙子さんが亡くなってしばらくのちに、俊一さんは何気なく『蟲になりても』を読み返してみたそうです。と、以前にも増して感動を覚え、突き動かされたように動き出版を実現させることができました。復刻版では平尾氏の歌に加え、当時交流のあった高知歌人のメンバーらが追悼譜を寄せています。また、橋本知事は序文で「日本人が次々と脱ぎ捨ててきた衣に包まれている」との言葉を寄せています。俊一さんは「最近は凶悪な犯罪が多発し命が粗末にされている。罪を犯し死刑囚となった人が死を前に、生きがいや生きることの意味を見いだす姿を多くの人に読んでもらい、命の大切さを考えてもらいたい」と話しています。